Monday, September 23, 2013

Malika Oufkir  マリカ・ウフキィル  مليكة أوفقير      

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/86/Malika_oufkir_2006.jpg/226px-Malika_oufkir_2006.jpg
Larry D. Moore CC BY-SA 3.0.














































大学院にてアラビア語ペルシア語を学習しているうちに日本国の在外公館で働くことができるということを知った。現在は、一般社団法人国際交流サービス協会というところが採用を引き受けているようである。

「一時外交官」として、各国の大使館に勤務するのも一生のうち一回は経験しておいてもいいんではないだろうか。わたしの場合は、在モロッコ日本大使館に勤務することになった。

当時は、まだ、ハッサン2世の統治下で、政治情勢も今よりは安定していたと思う。なにせ、ハッサン2世国王は2度の暗殺を乗り切った人物である。2度の暗殺未遂のうち、2度目は、ハッサン2世国王側近からクーデターを仕掛けられたのだった。ハッサン2世が乗ったボーイング727機が、自国のモロッコ空軍から砲撃されるという事件であった。

このクーデター計画実施の首謀者は、ムハンマド・ウフキィル将軍であるが、彼は、ベルベル(この呼称は一般的だが、彼ら自身は本心では望んでいないと思える、わたしの経験では、シュルーハというのが一番よかった)の出身である。非常に勇敢であったことが伝説となっている。第2次世界大戦当時はフランスのモロッコ人部隊に所属して戦った。シルバースター勲章を受けている。1947 年から 1949年までフランス軍としてベトナム戦争を戦った。その後、モロッコ王国内相、国防相を歴任し、ハサン2世の厚い信頼を得ていた側近中の側近であり、一方で、君主制の腐敗を一番に間近で感じていた人物だろう。前年、最初のスキラットのクーデターでは、体制側にあって暴動鎮圧に奔走し、その結果として、クーデターを実行した多くの親しい軍の同僚を失っていた。最初のクーデターの後、ハッサン2世国王と間にも互いに猜疑が親密を上回っていった。その彼が、1972年にハサン2世が搭乗するボーイング727の撃墜未遂事件を計画の首謀者となったのはしょうがないのあもしれない。ウフキィル将軍は処刑された。というか虐殺されたというべきか。。。


このモロッコでのクーデタ出来事は新聞等で日本でも当時、大きく報道されていて、砲撃されたボーイング727機のタラップから降りて来るハッサン2世の写真を見たのを覚えている。その後、ウフキル将軍の家族がどうなったのかを聞いたり、話たりすることは、在モロッコの日本国大使館勤務中においても、一種憚られる雰囲気なのであった。「あの、ほら、将軍の、、、ねえ、」という感じで目配せしながら話すという感じがぬぐえないのであった。

ウフキィル将軍の娘で後に、自らの体験を本にまとめベストセラーにしたのが、マリカ・ウフキィルである。クーデター未遂の数ヵ月後、娘マリカ・ウフキィルら将軍の家族は1973年から1977年まで、モロッコの南にある廃屋に軟禁。さらに1977年には、サハラ砂漠の監獄に移され、さらに過酷な監禁生活を送ることになった。復讐ということもあるが、ウフキィルの求心力を削ぐ意味もあっただろう。
1987年、マリカを含む数人が脱獄を決行し、監禁生活の事実が全世界に知られることになった。その後4年間はモロッコの監視下に置かれたが、1991年に他の政治犯とともに解放され、晴れて自由の身となり、マリカと家族の多くはフランスに移住した。そして、彼女と兄弟はイスラムからキリスト教へ改宗した。現在はフランス人と結婚し、アメリカに在住している。

彼女の半生をつづった著作はベストセラーとなる。それが、Stolen Lives: Twenty Years in a Desert Jail'である。 邦題は、「砂漠の囚われ人マリカ」となっている。



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