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Monday, October 21, 2013

知ってて役立つ旅の話。アシーラ。アシラー。

Asila by Mountain River
Asila, a photo by Mountain River on Flickr.
タンジェの港から列車に乗っても、また、車で海岸沿いをラバトに向かっても、やがて、アシラー、アラビア語ではむしろآصیلةアシーラという街に到着します。ここは、ほんとにちいさくまとまっていて、観光するにはもってこいなのですが、初めて来た旅人にダマシもあるようです。

タンジェで誘われて、アシラーで降ろされて、絨毯などの土産モノ屋に連れて行かれたり、宿やでもない民家に泊められてホテル並に料金を取られたりすることがあるようですがそれは、それで旅の一コマだと思います。なんてことはありません。

ガイド、ガイドとうるさくて、困ったという人もいますが、一人つかまえてチップをあげれば、他の人はよって来ません。ただし、「絨毯屋にはつれていくなよ」といえばいいでしょう。

アシラーの旧市街の端は大西洋に面しています。海は静かな時もあれば、荒れ狂ってる時もあります。ある日、「日本人が宿賃を払わずにとんずらした!」といってアシラーからおばさんがわざわざラバトの大使館まで訪ねてきました。そんなことあるのかと思いパスポートのコピーを見せてもらいましたが、パスポートは韓国か北朝鮮のモノでどう見ても偽造品でした。

日本からの観光客が多いので、写真を見て、日本人だと思ったんでしょうね。「おばあさん、日本人で宿賃を踏み倒すなんていう旅行者はまずいませんよ。これは、韓国や北朝鮮のモノでしかも、偽物です。」と説明しましたが、おばさんは、くやしそうでした。「だって、日本人だといったんだもの。」電話代も結構な金額になっていたそうです。。。。ひどいやつがいたもんだ。帰りの電車賃をカンパしてあげました。

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Tuesday, October 15, 2013

知っておくのはいつか役に立つ!2つの言語の似て非なる点。

アラビア語辞書
ペルシア語とアラビア語を学習し始めてかなりたった。この二つの言語は、アラビア文字を用いているが発音も文法も異なる。日本語も漢字を用いているが中国語とは発音も文法も異なるのと事情が似ているといえなくもない。

アラビア語の方が文法、発音ともに格段に難しいと思う。アラビア語の場合、「三語根と派生語」という点を理解しないと、辞書も引けない。もっとも、この辞書というのは、ハンスウェバーというドイツ人が作ったものをミルトン・コーワンという人が英訳したものなので、アラビア語~英語となっている。せっかく辞書を引いてお目当てのアラビア語の説明を見ても、英単語が難しい時は、さらに、英語~日本語辞書を引かないといけないというめんどくさい代物なのだ。

ペルシア語の方は、中世はパフラビー文字、古代はアラム文字、もっと遡れば楔形文字にたどることができるのだろうが、イスラムの勃興・征服にともないアラビア文字を受け入れた。ペルシア語音素をアラビア文字で表記することになったのだから、もともとのアラビア文字にない文字をペルシア語表現のために、いくつか追加した。たとえば、گ
グ この音はアラビア文字には無いし、 چ チェの音もアラビア語には無い。

ペルシア人は、よほど、アラビア文字を受け入れたの悔しかったのか。。。そのことによって、それまで、花と咲いていたペルシア語文学が2世紀に亘り、パッタリと何の作品も見出せなくなったので後世の研究者たちはこの2世紀を「沈黙の2世紀」と呼んでいるようである。

ペルシャ語周辺語の事情が知りたい方は、どなたがお書きになっているのかわからないが、概要説明がウィキ/イラン語群 に載っているので、一読ください。しかし、なかなかの複雑さですよ。

Friday, October 11, 2013

おススメ!られない。おいしいが体に悪い紅茶の飲み方。

Chai by novon
Chai, a photo by novon on Flickr.
カスピ海の南の端に並んだタバレスタンの話をしましたが、今回はチャイです。マーザンダラーンでは「チョイー」なんて言ったりします。「チョイ カムラング」「チョイ ポルラング」なんて言ったりするとそれは、「薄いの」「濃いの」なんて意味になります。

カムラングは薄い色、ポルラングは濃い色、紅茶もそれは人によって好みがあるんです。カムラングを好む人はカムラングでいれてあげないと飲まないかったり。小生は、ポルラングが好きです。

「ダーグ モバーゼトバシ!」、「サルショド アバズコナン?」、なんていうと、「熱いから気をつけろ!」とか、「冷たくなったから交換するか?」などという意味になります。

熱い場合は、まず、カップからソーサ(受け皿)に少しづつ移して飲みます。ソーサでさますんですな。そして、「ガンド」これは、紅茶用の砂糖が売っています。円錐型のコーン見たいな形でうっているんですが、これをは専用のはさみでガツン!ガツンときって角砂糖にします。

ます、角砂糖を口に含んで次にソーサでさましたチョイを一口って感じで地元の人は飲みますよ。まあ、糖尿の人も多いですがね。こんな飲み方じゃ、そら、増えますよ、血糖値が。

Tuesday, October 8, 2013

大切!ラクダに乗る二つの秘訣

Morocco Excursions - Private Day Toursの写真
 by Tripadvisor


ラクダですが、これがなかなかのシロモノですね。口から泡を出して、「ぎゃー。ぐえー」と鳴きます。そして、立ち上がるときは、まず、たたんだながい後ろ足から起き上がるのでですが、乗ってる方は、ラクダのケツが突然持ち上がるので、前のめりになるわけです。ここで第一の秘訣。前についている木の取っ手をしっかりつかみましょう。前に転がり出るのを防げます。ここ

そして、次に、ラクダは前足を立てます。ここで乗っているひとは、今度はさっきと逆に後ろに大きく振られます。へたをこくと後頭部から地面に転がってしまいます。

ここで第2の秘訣です。前についている木の取っ手をしっかりつかみましょう。後ろに転がるのを防げます。

しかし、そうやって準備しても時に、転がってしまうことがあります。それは、我々のせいではなくて、取っ手の木がくさっていることがあるからです。

なにせ、ここいらのラクダはひとコブなので、コブの後ろにしか座れず、居座りが悪い上に、出発の合図がかかると振られるので、初めて乗るひとはそのへんに注意してください。

Sunday, October 6, 2013

お得情報!モロッコで一番おいしい焼き肉を食べられる場所

Azrou, Morocco by Exotica Fotos
Azrou, Morocco, a photo by Exotica Fotos on Flickr.
アズローは、羊の一大産地で、すばらしい羊肉を生み出す場所です。岩塩とクミンを親指と人差指でつまんでパラパラとふりかけていただくのですが、それそれは、今まで食べた羊肉の中で最高のお味です。

周辺にはシーダの森が広がっていて、マカク種という日本猿と同じ仲間のさるが生息しています。NHKでも取り上げられていました。アフリカになぜニホンザルとそっくりのサルがいるのでしょうか?興味のある人はNHKのアーカイブで検索してみて下さい。

ところで、モロッコにかぎらず、中東では同じ種類の店が隣同士、延々と並ぶのですが、アズローの炭焼き羊焼き肉屋さんも並んでいます。向かって右端の店が美味しいのでおすすめです。

近所にあるホテルアズローは映画にでてくるようなプランス保護統治時代の香がしますよ。二階にあがる古めかしい階段をあがると昔使われていた黒電話は壁にかかっています。廊下を挟んで、部屋のドアが対面に並んでいます。

トイレは共同で廊下の突き当りに一つしかないのに、シャワーとビデは各部屋についているという「ふ~ん、そうなのね。ムフフ、」という感じの作りになっているです。

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Friday, October 4, 2013

マラケシュ~コーラ釣り

なぞの東洋人がコーラ釣りに興じているが、ここは、フナ広場。店のおじちゃんが、笑ってる。

ルールは簡単。釣竿からたれた糸の先にドーナッツ状のゴム輪が付いている。ドーナッツなので真ん中に穴が開いているわけだ。

その穴に、下においてあるコーラやオレンジジュースのビンの飲み口付近、やや細くなったあたりを通し、吊り上げたら、あげるよっ。てなもんだね。

これが、なかなかむずかしいし、実は、無理なんじゃないかあ~と思うほどなんだが、なんか夢中になってしまう。

「オレならできるさっ」てなもんで、じじいから若者から、男から女から、地元の人から外国人観光客から、こんななぞの東洋人まで、一心不乱にビンコーラ釣りに、日没マグレブまで興じているのだ。

そして、日没後は、あの有名な屋台群で、アセチレン灯火に照らされて熱々になりながら、ケバブや羊の煮込みやモロッコエスカルゴを、みなの注目を集めながら、お箸とおしょうゆと七味でいただくのが一日の楽しみっていうもんよ。

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ジャバル・アッターリク → ジブラルタル、そして ジブラルタ生命。。。

Jabal al-Tariq (Gibraltar)
1992年はコロンブスが1492年新大陸を発見してから500年、セビリア万博の年でした。1492年といえば、また、レコンキスタが完了した年となっていますが、レコンキスタとは再征服という意味のスペイン語なんですが、高校の西洋史の授業で出てきたと思います。

クリスチャン勢力がイスラム勢力をイベリア半島から北アフリカに押し戻した年となっているのです。このあたりの事情は、チャールトン・ヘストン主演の映画「エル・シド」に、クリスチャン側から脚色されて描かれていますが、興味がある方は一度ご鑑賞ください。面白いです。

レコンキスタ・再征服というからには征服があるのですが、これは711年طارق ابن زياد‎ Ṭāriq ibn Ziyād ターリク ブン ジヤード がイベリア半島にモロッコ側から上陸し、イベリア半島全体をイスラム支配下におき、以後約700年間、イベリア半島はイスラム世界になるわけです。

その時代の名残は今もアンダルシア地方に、色濃く残っています。グラナダのアルハンブラ宮殿はとくに有名ですが、スペインのセビリアもそうです。ヒラルダの塔はかつてのモスクのミナレットですし、街全体もかつては、モロッコのメディナ同様、城壁に囲まれていました。今、一部だけ残っていてイスラム支配下の旧市街の雰囲気を残しています。

写真はジブラルタルをスペインのアルへシラス側から見たものですが、この場所が、ターリクさんの上陸地点となったので、ターリクの山という意味でジャバル・アッターリクとアラビア語で史実に現れました。その後、スペインクリスチャン勢力がレコンキスタを完了させ、時代が下って、いつしか、最初の意味が失われ、音だけが残り、ジャバルアッターリクがジブラルタルに転訛した上に、今はここだけイギリス領です。最近日本では、ジブラルタ生命がこの山のデザインを使っていますね。

セビリアを流れるグワダルキビエールという川も元は、アラビア語で、ワジ・カビール 大きな川という意味だったのですが、時代が下って、こちらも意味が失われ、転訛してスペイン語になりました。
ここからコロンブスが出奔し1492年新大陸発見したといわれているのです。




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Thursday, October 3, 2013

ニッチ!誰も行かない場所の情報。タバレスタン

Forest by d o l f i
Forest, a photo by d o l f i on Flickr.
タバリ(レ)スタンは今のマーザンダラーン、ギーラーン、ゴレスターン、北部セムナーン、トルクメニスタンの一部を含む地域で、カスピ海の南の海岸線に並んだ地域です。

歴史上特色は、イスラム勢力に一番最後まで抵抗し、一番最後にイスラム勢力下に組み込まれた。ウマイヤもアッバースも最後まで攻めあぐねた地域です。今いこうとしてしてもアルボルズ山岳地域を抜けなければならないので道が険しいのです。

砂漠のイメージがあるイランですが、カスピの周辺は鬱蒼とした森林、ジャンギャールと地元の人は言いますが、砂漠から見れば全くのジャングルのようなものでしょう。

言語的にも、現代ペルシャ語と異なるマーザンダラーン語(又はタバリー語)の単語は大分違う印象を受けました。

家はペルシャ語では「khone」ホーネ(ホは喉の奥からでるハのようなホのような音)というんですが、タバリーでは「セレ」というんです。全然違う。ペルシャ語でお腹のことは「シェカム」といいますが、タバリーでは「ベティン」です。

そして、タバリー語を使うとみんなゲラゲラ笑うんです。面白いですね。今までしかめっ面していた警官とか役人とかお店の人とか通りの人までみんな「ゲラゲラ」です。

おそらく、日本に来た外国人が東北弁を使ってるような感じでしょうか?とにかく、受けて受けて、その場が一変します。まあ、しかし、「おらほのことば」なので「テヘランでは話すなよ」とよく言われました。

「ありがとう」はタバリー語では「ティヘ ノベ ドゥーン」です。

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Wednesday, October 2, 2013

商売の秘訣!モロッコのリヤカーおじいさんに学ぶ

在モロッコの日本国大使館がラバトの国連通りから現在のバラフラジ通りに移転したのは1997年のことでした。引っ越しというのはどこの世帯でも大変なことだと思いますが大使館の引っ越しも国が管轄することですからなかなかの苦労があったのです。

ところで、バラフラジ通りはスゥイッシーという住宅街のいわば入り口に位置しているんですが、周りに商店がありません。この辺りの人は皆車を2,3台もっていて郊外型のスーパーマーケットに買い出しに行くわけです。

新大使館建屋を建築中のことですが、新建屋は白亜の建物で夕日映えして、それはマグレブにはぴったりなのですが、周りに商店がありません。建築現場の技術者及び職人さんは昼食に困るのです。まあ、お金のある人は車できますが、ほとんどはバスやトラック荷台に便乗です。

もちろん、賃金も安いので昼食といってもパンをかじるくらいなのでしたが、それも買えません。

すると、どこからその状況を知ったのか、一人のおじいさんが人力リヤカーの荷台にいっぱいの菓子パンを積んで通りの向こうで待機するようになりました。むろん、荷台のパンは、あれよ、あれよという間に売り切れたのでした。

そのようにして、次の日も、次の日もおじいさんは一人でリヤカーを引いてきました。

建築はというと、モロッコでは当たり前ですが、工期が伸びるのです。それでも、担当官は頑張ったと思います。モロッコの職人を使うのはそれはそれは、大変だったでしょう。工期が伸びれば、伸びるほど、おじいさんは儲かっていったのです。

やがて、建築が実際に始まってから1年くらいはゆうに経過したと思いますが、落成式間近には、リヤカーがトラックになり、子供の助手も雇うくらいになっていたのでした。
リヤカーおじいさん、バンザイ!

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Monday, September 30, 2013

カスピ海

カスピ海を臨む
小学生のころから、結構地図をみるのが好きなのでしたが、カスピ海というのは、びわ湖なんかよりの格段に大きい湖であることが興味を引くのでした。地図を見ると確かに湖のように内陸にあるが、湖でなく、海とついていることが興味をますます、そそるのでした。

大人になって、カスピ海のネーミングに再会したのは、ヨーグルトです。+++カスピ海ヨーグルト+++これは、ねっとりしたヨーグルトでしたね。その後、イラン側のカスピ海を訪れる機会を得て、確かに「海だなあ」とわかったのでした。

しかも、海岸は結構リゾート地になっています。テヘランから近いこともあり、お金持ちがプライベートビーチにしている箇所もたくさんあります。ちょっとした不動産ブームですが、夏になると人がどっと押し寄せ、地元の人は「水不足でこまる~」と文句を行っているのでした。

スペインのマラガでも同じような状況があって、あまりに有名なビーチリゾートになってしまうと水不足がおこってしまうということあるようです。ハワイはどうなのでしょうか?どなたかご存知ありませんか?

カスピ海の海岸を撮ってありますのでご笑覧ください。ほんとにカスピ海なんですよ~。いつも風がボーボー吹いていたました。泳ごうとしたら、地元の人に強烈に止められました。「絶対帰って来られなくなる」というんです。泳ぎには自信がありますが、そんなに言われてやめました。。。

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Friday, September 27, 2013

Fes Medina 複雑な構造をした1000年都市にあった複雑な構造の家にまつわ る話 その5

Untitled by Nathan Watkins
Untitled, a photo by Nathan Watkins on Flickr.
ところで、今もスペインの南部アンダルシア地方でハモン(豚肉の塩漬け生ハム・・非常に美味かつビールとの相性抜群!!)が好んで食べられてきたのもこんな歴史が背景にあるわけです。つまり「俺達は、ハモンを食えるキリスト教徒だ。ムスリムではないよ。」と。この当時スペインにおいて迫害され追放されてイスラム教徒とともにモロッコに移住したユダヤ教徒は約10万人といわれています。もちろんイスラム教徒はもっと多数ですが。彼らユダヤ教徒はイスラム教徒による700年間のイベリア半島における各都市運営の中枢を担っていたんです。

モロッコに逃れたユダヤ教徒の多くはその後、といっても約450年後のことになりますが、前述のように、1948年のイスラエル建国によって1956年までに7~8万人のユダヤ教徒がモロッコを出てイスラエルに移住しました。モロッコには現在でも約1万人のユダヤ教徒が生活しております。もちろん現在ではモロッコの公用語であるアラビア語を話しています。モロッコ憲法の第一条には「モロッコの国教はイスラム教である」と記されていますがと同時に非ムスリムも尊重するとなっています。ユダヤ教徒には独自の身分法(婚姻、離婚、家族関係、相続等宗教と深い関係が残る部分の法律)とそれによる裁判が認められています。またモロッコでは現在でも時々「○○・アンダルーシィー」という家名の人に出会います。(スペイン語のアンダルシアと同義でもともとスペイン南部地帯の呼称。モロッコでは旧家名家となっています)これらの人はレコンキスタ後先祖がスペインのカトリックキリスト教徒の迫害から逃れてきたイスラム教徒やユダヤ教徒の末裔です。

思わぬ男の誘いから私の歴史研究がまた一段と深まった1000年都市の複雑な構造をした家の話でした。最後までこの話しに付き合ってくださった読者の皆さんありがとう。

Fes Medina 複雑な構造をした1000年都市にあった複雑な構造の家にまつわ る話 その4

ところで、私に話しかけてきたその男が案内してくれた家はそんな街中にありました。入り口には穀物を蓄える倉庫のような空間があり、もう出ないけど井戸もありました。内部はかなり広い家でした。前述の分類でいくと「うんと古い」という感じでした。そしてまた、「あれ?ここはふつうのモロッコ住宅じゃないな」という感じがしました。何かが変な感じなんです。その理由のひとつはその家が非常に複雑な構造をしていたからでした。おそらくは3階建て?!プラス屋上だと思うんですけど、途中に中二階や一階の下に半地下があったりするので迷ってしまうのです。しかも入り口から2階の広間に通じる階段が異様に狭く作られていて大人一人やっと通れるという狭さです。また各部屋には隠し部屋と隠しスペースがあって「なんだこの家は!この家の住人は何者だ!」と思わずにはおれない家でした。さらに内部に進んである部屋に来たときこの複雑な構造の理由がわかりました。ユダヤのシナゴーグ的なモザイクを施した作り付けの大きな棚が2つあったんです。それらは明らかにイスラムのモスクのモザイクとは異なります。しかもその大棚のそれぞれに50くらいマッチ箱くらいの引き出しがついていました。

この家はユダヤ教徒の商人の家で薬を扱っていたんですね。狭い階段も隠し部屋もそうです、いざというとき自分たちの身を守るためのからくりなんですね。この家の持ち主であった薬商人は1948年にイスラエルが建国されたとほぼ同時にイスラエルに移住したそうです。
「モロッコはイスラム教徒の国なのになぜユダヤ教徒がいるの?」と思われる方もあるかもしれません。

このユダヤ教徒商人たちは一体どこから来てどこへ行ってしまったんでしょう。 ご承知のとおり、モロッコとスペインはジブラルタル海峡を挟んで目と鼻の先です。高速フェリーで一時間です。隣同士の国なんですね、モロッコとスペインは。今を遡ること約500年以上前、1492年はコロンブスが新大陸を発見したとされる年でありますが、イスラム教徒とユダヤ教徒にとってはとんでもなくひどい年でした。というのもキリスト教徒によるレコンキスタが完成した年といわれているからです。カトリックキリスト教徒側から見れば約700年間に亘るイスラム教徒によるスペイン、ポルトガルつまりはイベリア半島支配に終止符を打ち、豚を食わないやつらをアフリカに追い返した栄光の年であるわけです。

Thursday, September 26, 2013

Fes Medina 複雑な構造をした1000年都市にあった複雑な構造の家にまつわ る話 その3

poor donkey by akaitori
poor donkey, a photo by akaitori on Flickr.
しかしながらそんな雑踏喧騒の昼間を抜け、夕日が沈むころになると徐々に涼しくなり心地良いゆったりとした風も吹いてきます。空と大地が夕暮れ色に染まって街の中央にある広場に市井の人々が三々五々集まりだし、「今日は何かおもしろいことあるかな」という顔して散策している時刻。各屋台が軒を並べ、羊肉を焼く匂いとそれに乗ってやってくるクミンの脳幹を刺激するいい香りがしてくるような夕刻の風景、いいですねえ、好きでしたねえ。その一場面一場面が一刻一刻が脳裏焼き付けられてしまうほど時の流れに力強さがあるんですね。

その広場の片隅に、裾のほつれた7分ズボンをはいて、棒切れを傍らに備え売り物の番をしている少し頭の弱いおじさんがいました。毎回定時になると2~3人のガキどもにからかわれるのですが、おじさんは待ち構えていたように、棒を頭上にかざしながら「このくそガキィ待てー!」と夕日に向かって追っかけてゆくんですね。なんというノスタルジックな夕暮れ時なんでしょう、たまりませんでした。おじさんのサンダルの片方の鼻緒が壊れているだけにどうしたってガキには追いつけないのです。ガキどももそのことは重々承知で毎回からかいに来るのです。広場に集まっている人たちの「またやってる」という感じで笑ってるどの顔にも夕日があたってそれはそれはタルコフスキー的なカットの長~いシーンとなって脳裏に刻まれてしまうのでした。米国人権委員会の人が見てたらすぐ派遣団を送ってくるでしょうね、「その人権抑圧をやめれ!」と。

Fes Medina 複雑な構造をした1000年都市にあった複雑な構造の家にまつわる話 その2

Fés - Médina by jboisard.photo
Fés - Médina, a photo by jboisard.photo on Flickr.
/ / /// 無秩序/// / /とは言いつつも、イスラム法によって、どこに公共施設が必要なのかとか、一般住宅の建て方や隣の家との境界から生じる問題の解決の仕方とか(たとえば雨水を隣地に流れ込まないようにしろとか)などきちんと決まっているようですけど、異文化から来て初めてここを訪れた人にとってはただただ迷路にはまり込むという感じでしょうね。

あっという間に迷ってしまう複雑に込み入った構造になっています。原理的には、シンプルな形を多様に組み合わせた結果による複雑さなんでしょうけど。主要な箇所にはマスジド(イスラム寺院)とハンマーム(公衆サウナ)とマドラサ(学校)とスーク(市場)があります。その他、作っているものによって街区が分かれております。即ち、真ちゅう細工地区、銀細工地区、木工細工地区、なめし皮製品地区、薬売り地区、香辛料売り地区、そしていわゆるスークといわれる肉魚野菜果物日用品なんでも売ってる地区があり、らくだの隊商隊が常宿としたフンドクあり、ジャッキー・チェンのカンフー映画しか上映しない映画館あり、どんな髪でもバリカン一本で仕上げてしまう床屋さんあり、そんなに音が割れるほどボリューム上げなくったっていいジャンと思うほど大音量でラジカセかけてるカセット売り屋あり、民族衣装を客にきさせて写真を取ってくれる写真屋さんあり、はぎれ屋さんあり、ビーズ屋さんあり、歯抜き士(決して歯医者ではない)あり、エジプトから出稼ぎに来ているおねえちゃんが踊るベリーダンスがメインの観光客相手のレストランあり、もう甘くて甘くて大変というお菓子ばっかり売っているお店あり、、コーヒー一杯またはミント茶一杯で10時間くらい粘っても大丈夫な喫茶店あり、ロバ君の蹄鉄交換屋さんあり、いわずと知れたじゅうたん屋あり、エピスリあり(フランス保護領時代に入ってきた雑貨屋のような店)・・・

他方、路上ではタバコ一本売りのじいさんあり、物乞いあり、いつ死んだかわからない鳥や左右サイズ不ぞろいの靴など「これ売ってんのかあ?!」と思わず聞いてしまいたくなるおじいさんとか、暗がりにただしゃがんでいるおばあさんとか、なんだか知らないけどののしりあってる胴の太いおばさんたちとか、珍しがって入り口からずーとついてきてるガキとか、屋台のこげたにおい、香辛料の匂い、生ごみのにおい、甘いような酸っぱいような変な匂い、強烈な香水のにおい、そしてなにより強烈な陽射し!!、何でもかんでもあります。これらが巻貝みたいな迷路の道にドバーッツ!と並びに並んでいるのです。どんどん万華鏡のように目の前を風景が回転していきます。

入り口からしばらく歩くともう前述のような雑踏と匂いと陽射しで頭がフリーズして、思考能力が著しく低下していきます。今まさに通り過ぎようとしている通りの様子と角を曲がったつぎの通りの様子が非常に似通っているため区別がつかず「あれっ?」と思って振り返ると今曲がったばかりの角をもう見失ってるという感じで、そしてアナタはもうすでに迷っています。あせるほどに思考停止状態が深まってゆきにどんどん迷路にはまり込んでいきます。そしてついに、「もうだめだ、わからん」なんて思いつつボーっと突っ立ってると、今度は後方から「アンダック!!(ほれアブねーぞ)」というおじさんの怒声と共に背中に家庭用生ごみを満載して突進してくるお目目のかわいいロバ君に激突または踏み潰されそうになってしまうという状況です。---いざとなったらもう身をゆだねてしまう、という力量がない人は本当に精神的に参ってしまうくらい日本的感覚から言うと何もかもが整然としていないところです。

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Fes Medina 複雑な構造をした1000年都市にあった複雑な構造の家にまつわる話 その1

Fes Medina by MB@Photography
Fes Medina, a photo by MB@Photography on Flickr.
モロッコのとある街で「釣りバカ日誌」と「教祖誕生」と「寅さん」映画の上映会を終え一服していたときのことでした。一人のモロッコ人が私に近づいてきました
「家を借りるつもりはありませんか」
「いいえ、いまラバトにすんでいるので・・・・」
「では、ちょっと見るだけ見てみませんか」

モロッコではよく見知らぬ人から、その場では即答できないような結構重要な話をいきなり持ち掛けられたりしました。このときの若い兄ちゃんは、身なりもきちんとしてるし言葉遣いも丁寧だし腰も低いしなかなかの男前でした。しかしモロッコの場合こういう人が一番危い場合があるんです。がしかし、、その遠慮がちでどことなく、おどおどとした感じが東北人ぽくて好感が持て、当方も暇だったこともあり、まあいいか、まあまあ信用できるほうかな、と、誘われるままついて行きました。

男が私に見せたいという家があるその街は1000年都市といわれています。イドリースという男がBC8世紀ごろ宗教的いざこざをのがれて西の辺境モロッコまでたどりつき自分の都をつくったことから始まっています。文部科学省歴史教育ではモロッコのイドリース朝というんであります。イドリースはシーア派イスラム教徒だったそうです。

なにせ1000年の街ですから、もう古いとか新しいとかではなしに石や漆喰で作られた巨大な遺跡のあちらこちらに人がドシャドシャと皆して住んでるという感じで、街中がただただ古いものだらけなのです。人に聞いても「カディーム(古い)」、「カディーム・ジッダン(うんと古い)」、「マーアレーシュ・カディーム・ジッダン(もうわからないくらいうんと古い)」のどれかしか言ってくれません。また古いだけでなく非常に複雑なのです。街の成り立ち自体が「節度のある無秩序」というか「秩序だった無秩序」という感じでルールはあるにはある、だけど好き勝手やる、というふうです。

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Tuesday, September 24, 2013

テマラ海岸


前述のマリカさんの半生記の中に、いろいろなモロッコの地名がでてきますが、その中でも思い出深い場所の一つがテマラでありスキラットなのです。ここは、ラバトから海沿いの気持ちのいい道路に出て、右手に海を見ながらを南に進んでいくと40分くらい走ったところにあります。

Gateway to the beach, Temara by Vaughan Parry
Gateway to the beach, Temara, a photo by Vaughan Parry on Flickr.
最初に現れるテマラ海岸はとてもよい砂浜海岸で、友人が家を借りていて、そこは、居間を出てすぐが砂浜になっていて、そのまま、海に入れる最高の家でした。ただ、そのあたりの海岸は砂浜ではありますが、海に出るとこれが、下が岩だらけで、油断するとすぐ怪我をするのでした。そして、海の怪我はなかなか治らないし危ないのです。周辺は、プライベートビーチが点在していて、ラバトのお金持ちたちが避暑に来たり、お金がそんなにないわれわれクラスでも、一角は一般にも開放してあり、大西洋を臨む瀟洒なホテルが立っていて宿泊できます。

続いて現れるのが、スキラットですが、どうして思い出深いかというと、ここに、ハッサン2世国王の夏の王宮があるからなんです。

思い出して今でもほくそ笑んでしまうのは、現国王モハメド6世がまだ、皇太子であったころ、よくジェットスキーをしてあそんでいたんですが、そのうしろをモロッコ海軍の巡洋艦が追行しているのがとても奇妙だったんです。巡洋艦が出てる日はシディー・モハメドか弟のムーレイ・ラシッドがジェットスキーに興じているとすぐわかるのでした。



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Monday, September 23, 2013

About Islam Branding

Recently I came to hear a story of Islamic Branding in Japan, which targets the hundreds of millions of consumers in Islamic countries. There might be surely the place where it is unfamiliar to Japanese company until now.

I think the person who has taken a trip to the Middle Eastern Islam area to have had drunk Mecca-cola,Zam Zam cola. This is a masterpiece of Islam Branding, too. Because one is the name of the sacred place for Muslim, and the other is the name of the special spring of the oasis of the desert, there are important place for a Muslim.

イスラミックブランディング 考察1

Arabic music 1 by Adilnor Collection
Arabic music 1, a photo by Adilnor Collection on Flickr.
最近、ちょこちょこイスラミックブランディング系の話を耳にするようになりました。何億人だかの消費者をターゲティングしているそうです。確かに今までアンタッチャブルのようなところがあったかもしれませんね。

中東イスラム地域を旅したことがある人なら、メッカコーラ、ザムザムコーラという名前のコーラを飲んだことがあるとおもいます。これも、イスラムブランディングの代表例です。一方は聖地であるし、他方は砂漠のオアシスの特別な泉の名前ですから、イスラム教徒にとって親しみがあるわけです。

しかし、一方で、缶や瓶などで販売される商品ですから、消費が終わればやがて廃棄されるわけです。そうなると、中には、道端に捨てられたり、溝の中に転がっていたりすることもあるでしょう。

Malika Oufkir  マリカ・ウフキィル  مليكة أوفقير      

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/86/Malika_oufkir_2006.jpg/226px-Malika_oufkir_2006.jpg
Larry D. Moore CC BY-SA 3.0.














































大学院にてアラビア語ペルシア語を学習しているうちに日本国の在外公館で働くことができるということを知った。現在は、一般社団法人国際交流サービス協会というところが採用を引き受けているようである。

「一時外交官」として、各国の大使館に勤務するのも一生のうち一回は経験しておいてもいいんではないだろうか。わたしの場合は、在モロッコ日本大使館に勤務することになった。

当時は、まだ、ハッサン2世の統治下で、政治情勢も今よりは安定していたと思う。なにせ、ハッサン2世国王は2度の暗殺を乗り切った人物である。2度の暗殺未遂のうち、2度目は、ハッサン2世国王側近からクーデターを仕掛けられたのだった。ハッサン2世が乗ったボーイング727機が、自国のモロッコ空軍から砲撃されるという事件であった。

このクーデター計画実施の首謀者は、ムハンマド・ウフキィル将軍であるが、彼は、ベルベル(この呼称は一般的だが、彼ら自身は本心では望んでいないと思える、わたしの経験では、シュルーハというのが一番よかった)の出身である。非常に勇敢であったことが伝説となっている。第2次世界大戦当時はフランスのモロッコ人部隊に所属して戦った。シルバースター勲章を受けている。1947 年から 1949年までフランス軍としてベトナム戦争を戦った。その後、モロッコ王国内相、国防相を歴任し、ハサン2世の厚い信頼を得ていた側近中の側近であり、一方で、君主制の腐敗を一番に間近で感じていた人物だろう。前年、最初のスキラットのクーデターでは、体制側にあって暴動鎮圧に奔走し、その結果として、クーデターを実行した多くの親しい軍の同僚を失っていた。最初のクーデターの後、ハッサン2世国王と間にも互いに猜疑が親密を上回っていった。その彼が、1972年にハサン2世が搭乗するボーイング727の撃墜未遂事件を計画の首謀者となったのはしょうがないのあもしれない。ウフキィル将軍は処刑された。というか虐殺されたというべきか。。。

Sunday, September 22, 2013

あなたはペルシア語を読むことができますか?

A question by quinn.anya
A question, a photo by quinn.anya on Flickr.

آیا شما می توانید زبان فارسی بخوانید ؟

イラン人と日本人の感覚とが、よくに似てると思うことのひとつに、「外国人が自国の言葉を話すことをあまり期待していない」ということがあります。

つまり、日本人が外国人に対し、日本語を話せることを期待していないように、イラン人も相手がペルシャ語を話すことをあまり期待していないように思います。

そして、こちらが多少理解できるとわかると、おそらく、質問ぜめにあうかもしれません。

イラン人は、とにかく、好奇心旺盛な人たちです。昔から交通の要衝に位置しているので、他民族との接触が多い場所です。

交渉ごと、折衝ごとに強いし、人をもてなすのが上手です。

今は、体制が体制だけに、そう気軽に旅行に行くというわけにはいかないのかもしれませんが、仮に、70年代、革命前に旅行していたら、どんなに楽しい旅になったのかと思います。